イタリアプロジェクトとバブル崩壊の余波[第1部 - 第3話]
「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第3話。前回の記事はこちらです。三菱自動車工業の仕事に慣れてきた佐藤さんは、念願がかなってイタリア関連のプロジェクトを担当することになります。このプロジェクトの後、少しずつインターネットの方向にキャリアが近づいていきます。
第2話では、旭通信社へ入社後、国際部に配属され三菱自動車工業を担当していたところまでお伺いしました。インターネット広告業界へ転身するまで、ずっと三菱自動車工業を担当していたんですか?
国際部で三菱自動車工業の担当として10年ほど働いていた30代前半の頃、転職を考えていました。若い頃は多くの人がそうだと思うんですが、ある程度仕事を覚えると、今やっていることがずっと続くような気がして、他のことが見えなくなってしまうんですよね。
でも懐の深い上司のおかげで、転職することなく自分がやりたかったイタリア関連のプロジェクトを企画できたのです。
三菱自動車工業の仕事からイタリアプロジェクトへ
佐藤:自動車は毎年新しいモデルが発売されるので、毎年同じことの繰り返しなんです。
「この仕事がこのまま一生続くのかな」って思っちゃって。将来のキャリアに迷って「辞めた方がいいのかな」と、考えたこともありました。そんな矢先に、空前のイタリアブームが到来しました。
杓谷:ジョルジオ・アルマーニやヴェルサーチなど、イタリアのファッションが人気になって、ティラミスといったイタリアの食品もブームになり、「イタ飯屋」なんて言葉も生まれましたよね。
佐藤:その通りです。このブーム以前は、今ではスーパーで当たり前に見かけるホールトマトの缶詰もあまり売ってなくて、普通のトマトかケチャップしかなかったんじゃないかと思います。文藝春秋の『CREA』という雑誌も創刊されて、そのロゴデザインをイタリアのデザイナー、マッシモ・モロッツィが手掛けていました。
佐藤:国際部で三菱自動車工業を10年ほど担当した頃、大学時代の同級生が独立してオフィスを開設し、少しだけ手伝うことになりました。「手伝う」といっても、オフィスに時々顔を出すくらい。同級生の会社は、イタリアのデザイナーを日本に招いてコーディネートする仕事で、次第に僕もそのような仕事に興味を持ち始めました。そんなとき、渋谷の不動産会社が同級生と同様の事業を立ち上げることになり、「一緒にやってみないか」と声をかけられたのです。これを機に、転職を考えるようになりました。
直属の上司に「転職を考えています」と打ち明けに行きました。その上司は、中村局長(当時は本部長に昇格)と名コンビで知られていて、中村さんは攻めの姿勢でどんどん進めるタイプでしたが、直属の上司は難しい課題やトラブルに対しても辛抱強く取り組み、形にしていくような人でした。部下やクライアントからの信頼も厚く、とても尊敬されていました。
その上司に辞めたいと伝えると、「もう少し考えたほうがいいんじゃないか?」と言われました。すると数日後に「お前が転職を考えている会社のことを調べてみたぞ」と言い、その会社は資金繰りが厳しい状況にあることを教えてくれたのです。
さらに上司は、「もしお前がそういうのをやりたいんだったら、うちでやってもいいんじゃないか?」と提案してくれました。驚きながらも、そこで挑戦させてもらったのが、イタリア関連のプロジェクトです。この懐の深い上司の対応に、心から感動したのを今でも覚えています。
1990年、汐留駅跡地で「Creativitalia」というイタリア展を企画
佐藤:1990年頃、汐留に電通や日本テレビなどのビルが建つ前は、そこに国鉄の貨物ターミナルの跡地がありました。その跡地で、イタリア展「Creativitalia(クレアティビタリア)」を企画しました。スポンサーにはオムロンがついてくれたおかげで、実現できました。
この展示会の設計は、建築家のガエターノ・ペッシェが担当し、図録はグッゲンハイム美術館の元キュレーターであるジェルマーノ・チェラントが手掛けました。日本からも、建築家の磯崎新、デザイナーの三宅一生、プロダクトデザイナーの黒川雅之、インテリアデザイナーの倉俣史朗など、各分野を代表する錚々たる人物が集まりました。
バブル崩壊の余波が少し遅れてやってくる
佐藤:汐留で開催した「Creativitalia」を見たイタリア貿易振興会の会長がとても感動し、「ぜひ旭通信社と一緒にプロジェクトをやりたい」と言ってくれました。
そのプロジェクトは「アビターレイタリア」(アビターレはイタリア語で「住む」「生活する」の意味)という住居関連の企画で、日本のゼネコンをスポンサーにして、イタリアの建築家が晴海の会場に“未来の家を建てる”というもの。僕はそのコーディネートを担当しました。
日本からは建築家の高松伸、丹下健三、鈴木エドワード、伊東豊雄などが参加し、イタリア側でもマリオ・ベリーニ、エトーレ・ソットサスといった巨匠たちが参加しました。プロジェクトの目的は、イタリアの建材を日本に普及させることでしたが、今にして思えばとても大掛かりな試みでした。
しかし、バブル崩壊の影響が遅れてやってきたことで、次第に勢いが失われ、イタリア関連のプロジェクト自体も縮小していく方向になってしまいました。バブル崩壊の影響だけでなく、自分の力不足も強く感じる出来事でした。
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