NTTドコモの「iモード」サービス開始と「キャリアレップ」の設立 何としてもJAAAの会員にならねば! [第2部 - 第15話]
「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第15話。前回の記事はこちらです。

米国のインターネット・バブルの後押しもあり、バナー広告の配信を支えるテクノロジーもかなり進化してきましたね。DoubleClickの「DART」をはじめとする「アドサーバー」が登場し、「アドネットワーク」が広がっていきました。

1999年にNTTドコモが「iモード」のサービスを開始し、世界に先駆けてインターネットに接続できる携帯電話が登場しました。Googleは、後に開発するスマートフォン用のOS「Android」のビジネスモデルで「iモード」を強く意識していたと思います。Infoseekも「iseek」という「iモード」用の検索サービスをいち早くリリースしました。携帯電話のインターネット広告については加藤さんが詳しいので、当時の様子を語ってもらおうと思います。

僕は、1999年1月25日に東京・原宿にあるイベントホール「QUEST HALL」で広末涼子さんが登場したNTTドコモの「iモード」のメディア向け説明会に参加しました。富士通、NEC、三菱電機の3社が作ったインターネットに接続できる携帯電話(フィーチャーフォン)が紹介され、僕も最初のN501(NEC製)を購入しました。


急いでJAAA(日本広告業協会)の会員になってください
加藤: 1999年に発表された「iモード」は、第9話で紹介した「ハイパーネット」の副社長だった夏野剛さん(現KADOKAWA代表取締役)が、NTTドコモ(ゲートウェイビジネス部)に移り、企画・開発に深く関わっていました。
2000年4月、僕が夏野さんにお会いした際、こんな話を耳打ちされました。
NTTドコモと電通が組んで、iモード広告のメディアレップを立ち上げます。CCIとは異なり、ドコモが株の過半数を持ちますが、社長は電通から迎えます。2000年6月にサービスを開始する予定です。
こうして誕生したのが、株式会社ディーツーコミュニケーションズ(現D2C、以下D2C) です。創業社長に選ばれたのは、藤田明久さん。藤田さんは、CCI設立時、電通からの出向取締役として活躍していた、いわば僕の戦友のような存在でした。
5月になると藤田さんから連絡がありました。
加藤さん、急いでJAAAの会員になってください。iモードのトップページ『iMenu』に新たなメニューを追加し、広告掲載ページを作ります。その広告を取り扱えるのは、JAAAの会員だけにしようと考えています。
当時、JAAA※の会員になるには、既存会員5社からの推薦を受け、最終的に理事会での面談を通過しなければなりませんでした(後に3社へ緩和)。条件はかなり厳しかったのですが、僕は急いで関係各所にコンタクトを取り、無事に5社の推薦を得て入会することができました。
下の画像は、2000年6月29日付でD2Cが代理店向けに配布したiモード広告の媒体資料 です。

(出典:2000年6月29日付けのD2Cのiモード広告媒体資料。加藤さん所蔵)
加藤: 藤田さんに伝えられたこの新しい広告専門のメニューは、説明会の時点では「キャンペーン情報(仮称)」として紹介されていました。しかし、後に「とくするメニュー」という名称で一般公開されました。

(出典:2000年6月29日付けのD2Cのiモード広告媒体資料。加藤さん所蔵)

(出典:2000年6月29日付けのD2Cのiモード広告媒体資料。加藤さん所蔵)

出典:ITmedia Mobile「iモード広告のビジネスモデルは成立するのか - Wireless Conference 2001」(2001年7月18日付け)
乱立するハウスエージェンシーと、蚊帳の外に置かれたインターネット専業広告代理店
加藤: D2Cが「iMenuの広告を取り扱えるのはJAAA会員だけ」というルールを設けた理由の一つは、1998年~2000年のインターネット広告業界に「自称広告代理店」が無数に登場したことだと思います。
当時、大手広告代理店はまだ本格的にインターネット広告に取り組んでおらず、積極的な広告主は自社の広告制作会社などを「広告代理店」(ハウスエージェンシー)として、CCIやDACと次々に取引を進めていました。これを電通は苦々しく思っていたのでしょう。大手広告主がハウスエージェンシーを通じて直接広告枠を購入できる状況になると、広告代理店の存在価値が希薄化するという懸念があったのです。こうした広告代理店の乱立を整理するため、iモードでは 「iMenuの広告枠はJAAAの会員のみが取り扱える」という条件が設けられたのだと思います。
専業広告代理店がJAAA会員になるハードルの高さ
このルールによって大きな影響を受けたのが、サイバーエージェント、オプト、セプテーニなどのインターネット専業広告代理店です。当時、彼らはクリック保証型広告の販売や比較サイトなどの自社メディア運営を積極的に行っていました。第13話で紹介した通り、広告代理店が自らメディアを運営することはご法度とされていたので、大手総合代理店が多数所属するJAAAの既存会員から推薦を得ることが難しく、会員になるのは困難な状況でした。D2Cの説明会でこのルールを聞いたとき、彼らは驚愕したと思います。
一方、日広は第8話で紹介した通り、もともと雑誌広告を販売していたため、神保町・小川町に集まっていた「まわし」代理店の諸先輩方を一社一社回り、推薦状を書いてもらってJAAAの会員になることができました。(※「まわし」とは、特定の広告枠に取引口座を持つ広告代理店が、口座を持たない広告代理店に広告枠を融通すること。詳細は第7話・第8話参照)
その結果、iモードが登場して最初の3年間、モバイルの公式サイト広告市場では日広が最前線で活躍することになりました。この状況で僕は、手数料として5%だけ抜いて、インターネット専業代理店に「まわし」ました。
iモードの「公式コンテンツ」と「コンテンツプロバイダー」
加藤:iモードで特に痛快だったのが、「公式コンテンツ」の仕組みです。iモードではコンテンツ利用料の課金が可能で、代金回収をNTTドコモが代行するという特徴がありました。これは、かつてのダイヤルQ²のビジネスモデルと全く同じです。もちろん、NTTドコモのゲートウェイビジネス部も、ダイヤルQ²の成功と失敗を徹底的に研究した上での再挑戦でした。
iモードはNTTドコモが運営していましたが、天気予報やモバイルバンキングなど公共性の高いサービスは無料で提供し、ユーザーの利便性を高める一方で、価値のある有料コンテンツを集めることを初期段階から目標として掲げていました。
この公式コンテンツの提供事業者を「コンテンツプロバイダー」(以下、英語の頭文字を取って「CP」)と呼び、有料コンテンツを提供するCPの開拓も並行して進めていたんですね。
具体的には、グルメ情報、タレントの声、明日の波の高さなどの情報を1カ月300円という上限金額で課金コンテンツとして販売できる仕組みを整備しました。

出典:Internet Watch「NTTドコモ、携帯電話単体で利用できるネットワークサービス『iモード』発表」

(出典:2000年6月29日付けiモード広告媒体資料。加藤さん所蔵)
加藤:初期のiモードにおける「公式コンテンツ」の課金CPの中でも特に成功していたのが、カジュアルゲームや占いで人気を集めた 「Cybird」と「index」の2社でした。どちらも僕の旧知の方が経営していたこともあり、「この流れなら、他のCPも右にならえでiモードの広告枠を買ってくれるはずだ」と直感しました。
実際、iMenuのメニュー表に課金コンテンツを掲載しているCPがすべて日広のクライアントになる可能性があったのです。しかも、D2Cから広告枠を仕入れるには、JAAAの会員であることが必須という条件がありました。
そこで日広は、当時「光通信」の孫会社で社長を務めていた本間広宣さんを取締役として迎え、モバイル専門の営業部を新設。iMenuで有料コンテンツを提供しているCPを片っ端から訪問し、「こういう広告が始まるので、ぜひ出稿してください」と営業活動を展開しました。
一方で、電通が狙っていた「とくするメニュー」の想定需要はナショナルクライアント(主にテレビ広告を活用する大手企業)の販促支援でした。しかし、CPの運営法人は新興企業や小規模事業者がほとんどで、iモードのビジネスモデル自体もまだ確立されていませんでした。D2Cもその点を理解しており、
大手総合広告代理店は積極的に売る動機がないと思うので、思いっきりやってください。
と僕に言っていました。おそらく、最初からこの状況を見越して僕に声をかけてくれたのだと思います。
「A1(エイワン)アドネット」と「Jモバイルコミュニケーションズ」の設立
加藤:その頃、KDDIも携帯ブランドをauに変更し、新たな体制で「EZweb」の名称でiモードと同様のサービスを開始していました。そして2000年12月、KDDIが51%出資し、博報堂・ADK(当時の旭通信社が統合・改称)・DACなどと共同で「A1(エイワン)アドネット」(現mediba)を設立。これは EZweb専門のメディアレップでした
デスクトップPCの世界では、
- 電通が「CCI」
- 博報堂・ADK系が「DAC」
という構図だったのと同じように、携帯電話の世界でも
- 電通グループの「D2C」
- 博報堂・ADK系の「A1アドネット」
という形でメディアレップが形成されていきました。
「A1アドネット」の広告枠は、JAAAの会員かどうかは関係なかったため、セプテーニやオプトなども取引口座を開こうと思えばすぐにできる環境でした。しかし、日広がCPに先行して営業を行っていたため、CP向け広告営業の分野では独壇場の状況でした。
その後、J-PHONE(後のボーダフォン→ソフトバンクの源流)も電通と提携し、「Jモバイルコミュニケーションズ」(以下Jモバイル)を設立。このように携帯キャリア専門のメディアレップは「キャリアレップ」と呼ばれました。
日広は2000年〜2003年頃にかけて、着メロ・ゲーム・写真アプリなどの公式コンテンツ広告で大きく成長しました。まさに「サンクチュアリ(聖域)」のような市場だったのです。
「公式コンテンツ」と同等以上に成長した「勝手サイト」の広告市場
加藤:NTTドコモが決済を行う「公式コンテンツ」が盛り上がる一方で、「勝手サイト」と呼ばれるサービスも登場しました。これらの「勝手サイト」も同じくCPではありますが、課金回収代行を利用せず、ユーザーが銀行振込などで直接サービス利用料を支払う仕組みになっています。つまり、携帯電話キャリアを介さずに独自のビジネスを展開しているため、「勝手サイト」と呼ばれるようになったのです。
第8話でお話ししたように、僕は雑誌広告の時代から男女のマッチングサービスを提供する事業者と取引がありました。インターネット接続が可能な携帯電話が登場した後も、広告予算を持つ事業者の多くは、マッチングサービスの運営者でした。つまり、1995年頃まで雑誌広告を案内していたお得意先の多くが、その流れのままモバイルの世界にも進出していたのです。当初「ツーショット」と呼ばれていたサービスは、やがて「出会い系」という呼称に変わっていきました。
その後、デスクトップPCと同様に、携帯電話のインターネット広告もアドネットワーク化が進みました。キャリアレップを通じた広告販売は続けていたものの、「魔法のiらんど」や「スタービーチ」などの掲示板型の勝手サイトが次々と登場し、広告ビジネスの面でも「勝手サイト」が大きな存在になっていったのです。

出典:Internet Archive
加藤: 最終的に、携帯電話の広告もデスクトップPCのようにジャンルごとに配信できるようになりました。そして、その広告枠に積極的に出稿したのが、消費者金融業者と出会い系サービスの事業者でした。日広は「公式コンテンツ」だけでなく、「勝手サイト」の分野でも強みを持っていました。
Google創業者も注目した日本の携帯電話
佐藤:ちょうどその頃、Googleを創業したばかりの20代のラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンが来日しました。後にGoogle日本法人の1号社員となる人が、彼らを秋葉原に案内し、インターネットに接続できる携帯電話を見せたところ、2人は夢中になってしまい、その後のミーティングにはまったく集中しなかったという逸話があります。今振り返ると、Googleが最初に海外支社を設立したのが日本だった理由の一つに、この「インターネットに接続された携帯電話」の存在があったのかもしれません。
次回は3/13(木)公開予定(毎週木曜日更新)です。
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