インターネット・バブルの到来! 「ディズニー/エキサイト/ライコス」の日本市場参入と「ネットエイジ」[第2部 - 第13話]
「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第13話。前回の記事はこちらです。
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メディアレップが販売するバナー広告は表示回数をベースにした課金形式でしたが、「バリュークリック」「サイバークリック」などのクリック保証型広告が登場し、メディアレップの管掌外のところでサイバーエージェントや加藤さんの日広を筆頭にインターネット広告市場が盛り上がってきましたね。
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1998年頃になると、アメリカでも日本でもインターネット・バブルが本格化し、潤沢な資金を利用して海外のポータルサイトが日本市場に参入してきました。新たなメディアが登場することで、インターネット広告市場も大きく成長していきました。
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この頃になると、インターネット広告に携わるプレーヤーの数も増えてきて、インターネット広告の商品メニューも多様化していきました。日本では「ネットエイジ※」を中心に、インターネットで起業する人達が増えていき、後に「ビットバレー※」と呼ばれる動きに発展していきました。
多様化するインターネット広告の商品ラインナップ
加藤:1998年頃のインターネット広告市場は、「Yahoo! Japan」や「Infoseek Japan」などのポータルサイトの広告枠に加え、「読売新聞オンライン」や「asahi.com」(現「朝日新聞デジタル」)などのニュースサイト、「ベクター」「窓の杜」などのソフトウェアダウンロードサイトなどの広告枠が人気でした。第12話で紹介したように、インターネット専業広告代理店を中心に「バリュークリック」や「サイバークリック」などのクリック保証型広告が登場し、商品が多様化していったのですが、これらに匹敵する売上規模があったのは実は「メール広告」でした。
エルゴブレインズが運営する「DEMail」は、オプトインメール(ユーザー登録型の1社スポンサーによるダイレクトメール)の最大手でした。一方、メルマガ配信の「まぐまぐ」が発行する「ウィークリーまぐまぐ」は、配信メルマガを紹介する媒体として広く活用されていました。これら2つの媒体は非常に効果が高く、広告が飛ぶように売れたため、CCIやDACも次第に注力していきました。
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加藤:1998年から1999年頃にかけて、サイバーエージェント、オプト、セプテーニといったインターネット専業広告代理店3社は、消費者ローンやクレジットカードの比較サイト、引っ越しや中古買取の見積もり一括サイトなど、自社メディア事業に力を入れ始めました。
佐藤:当時の広告業界では、広告代理店が自らメディアを運営するのはご法度とされていました。だからこそ、既存の大手総合広告代理店やメディアレップは、メディア事業に参入しづらかったんです。
加藤:一方で、インターネット広告を始める前から雑誌広告を販売していた日広は、業界の商習慣を理解していたため、自社媒体を運営しない「広告購買代理店」としての立場を貫きました。インターネットサービスを運営する広告主にとって、他の3社は競合になる可能性がありましたが、その分、日広には後発のニュースや情報仲介サイトのクライアントが次々と増えていきました。また、3社には上場という目標がありましたが、僕は上場を目指していなかったことも影響したかもしれません。
こうした背景もあって、日広は商社などの大手企業が次々とポータルサイト事業に参入してくるインターネット・バブルの波にうまく乗ることができたんです。
アメリカのインターネット・バブルの波が日本にも押し寄せて
佐藤:初期のInfoseekは、利益を出すのがとても大変でした。しかし、その頃米国ではインターネット・バブルが到来し、Infoseekと同じくロボット型検索エンジンを開発していた「エキサイト」や「ライコス」といったポータルサイトが日本法人を設立し、日本市場に参入してきました。
これらの企業は本国から潤沢な資金を受けていたため、最初から従業員が数十人規模と大きく、テレビCMを使った大々的なプロモーションも行っていました。「エキサイト」は伊藤忠商事が、「ライコス」は住友商事が出資するなど、米国のインターネット・バブルの波に乗り、大手総合商社もインターネット事業に参入していったんです。
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(出典:Internet Archive )
「ライコス」が特におもしろかったのは、そのウェブサイトのデザインが「Yahoo! JAPAN」とまったく同じだったことです。まるで、Yahoo! JAPANのロゴをライコスに差し替えただけのような徹底ぶりでした。
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(出典:Internet Archive )
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(出典:Internet Archive )
さらに、テレビCMには当時女子高生に大人気だった浜崎あゆみを起用し、黒いラブラドールレトリバーの「ライコス犬」というキャラクターも登場するなど、強い印象を残していました。
佐藤:こうした米国のインターネット・バブルの流れの中で、本連載にも後ほど登場する杉原剛氏(Overture日本法人の初期メンバーで、現在アタラ株式会社の代表取締役)と出会いました。
当時、彼はインテルに在籍しており、営業としてInfoseekのオフィスを訪れました。彼が提案してきたのは、「ウェブサイト上に3Dコンテンツを設置すれば、インセンティブとして報酬を支払う」というマーケティングプログラムでした。その狙いは、3Dコンテンツのようなリッチなコンテンツを表示するとPCの処理負荷が増し、表示速度が遅くなることで、より高性能なCPUを搭載したPCが欲しくなる。つまり、新しいインテルのCPUの売上が増えるだろうというものでした。
利益を上げることに苦労していたInfoseekにとって、この話は魅力的でした。そこで、第4話と第6話に登場した氏家さんに「サチオくん」という3DロボットのCGを作ってもらい、キーワード検索の普及を目的に「今週の検索ランキング〜!」なんて言わせながら発表していました(笑)。
これは、米国を中心にインターネットへの注目が高まり、日本にも投資が拡大していった一例ですね。
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出典:INTERNET Watch「infoseek JAPANが11月24日リニューアル」(1998年11月10日付)
ディズニーによるInfoseek本社の買収
佐藤:こうした世界的な金融の動きの中で、1999年6月、デジタルガレージの事業部として運営していたInfoseek Japanは、米国のInfoseek本社によってチームごと買収され、「株式会社インフォシーク」として新たにスタートしました。その流れで、デジタルガレージのCFOを務めていた日銀出身の中村さんが社長に、伊藤穰一が会長に就任しました。この背景には、米国でメディア・コングロマリット(多業種間にまたがる巨大企業)が本格的にインターネット事業に参入し始めた動きがありました。
当時、米国ではYahoo!やInfoseekなどのポータルサイトがバナー広告を主な収益源としていました。しかし、検索エンジンを通じてユーザーが外部サイトに流れてしまうのは機会損失だと考え始めたのです。というのも、バナー広告はインプレッション保証型(表示回数に応じて課金される形式)だったため、ページビューの増加がそのまま収益につながる構造でした。そこで、ポータルサイト各社はユーザーをサイト内に留める戦略を取り、さまざまなサービスやコンテンツを抱え込もうとする動きが加速していきました。
実際に、この流れの中で2000年には、パソコン通信の時代から存在感を持っていたAOLがタイム・ワーナーと合併しました。タイム・ワーナーは映画、テレビ放送、ケーブルテレビ事業を手がけるメディア・コングロマリットで、AOLはその豊富なコンテンツを活用してユーザーを囲い込み、バナー広告などの収益を最大化しようと考えていました。
こうしたAOLとタイム・ワーナーの動きを見ていたウォルト・ディズニー・グループ(以下ディズニー)は、米国のInfoseek本社を買収することを決定しました。日本ではディズニーはテーマパークやアニメーション映画で知られていますが、米国では三大民間放送ネットワークのひとつであるABCやスポーツ専門チャンネルESPNを傘下に持つ、タイム・ワーナーに匹敵するメディア・コングロマリットです。ディズニーは、自社が持つ圧倒的なコンテンツ資産とInfoseekの検索技術を組み合わせることで、インターネットの「玄関口」を押さえ、AOLやタイム・ワーナーに対抗しようと考えたのでしょう。
そして、「株式会社インフォシーク」設立からわずか5ヶ月後の1999年11月、米国のInfoseek本社はディズニーに買収され、「Go.com」へと改称されました。
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出典:Internet Archive
日本のインターネット・バブルの中心にいた「ネットエイジ」
加藤:米国のインターネット・バブルの影響を受け、日本でも1998年から2000年にかけて、インターネットを活用した起業が活発になりました。全国から学生や、これまでインターネットとは無縁だった事業者たちが東京に集まり、渋谷や六本木のマンションや雑居ビルを借りて次々と会社を設立。まさに雨後の筍のように、多くのスタートアップが誕生しました。こうした若い起業家たちの活躍によって、インターネットサービスは一気に普及していったのです。その中心にあったのが「ネットエイジ」でした。
ネットエイジは、西川潔さんが立ち上げたビジネス・インキュベーターです。目指していたのは、米国の「idealab」のような存在になること。idealabは、後にこの連載にも登場する「GoTo.com」(のちのOverture)を輩出したインキュベーターで、ベンチャーキャピタルのゲームチェンジャーと呼ばれたビル・グロス氏が創業しました。現在も存続しており、Overtureは今もidealabの成功事例の筆頭として紹介されています。
ネットエイジは、学生や起業家が集まりインターネットについて語り合う、まるで現代の松下村塾のような場所でした。今、インターネットビジネスの第一線で活躍している人の多くが、当時ネットエイジに通っていたんです。そこへ行けば必ず誰かと出会え、行くたびに新しい人と知り合える、そんな刺激的な環境でした。当時のネットエイジのビジネスモデルを取材した記事からも、熱狂ぶりが垣間見えますね。
参考:【KNN特約】ネットエイジへ続け!--数億円で事業を売却した新タイプのベンチャー成功術
僕は、ネットエイジを通じて、のちにCCIの親会社となるカルタホールディングス社長の宇佐美進典さんや、MIXI会長の笠原健治さん、アイスタイル会長の吉松徹郎さん、Unipos会長の田中弦さん、のちにヤフー社長となる小澤隆生さんとも知り合いました。また、まだAmazonが日本に進出していなかった頃ですが、Amazon Japanの初期メンバーだった西野伸一郎さんも、ネットエイジの初期役員の一人でした。彼は現在、富士山マガジンサービスの会長を務めています。
何より、西川さんが
「他のインターネット専業広告代理店に発注すると、ビジネスモデルを真似される可能性があるから気をつけたほうがいい。加藤は信用できる」
と言ってくれていたおかげで、「加藤くん、新しいネットサービスを始める人を紹介するから、広告の手配を頼むよ」といった形で、自然と仕事が回ってくるようになりました。
西川さんは、資金を提供するというよりも、アイデアや人脈を提供するタイプの人でした。「アメリカではこんなアイデアがあるよ」とか、「渋谷界隈におもしろい人がいるから紹介するよ」といった形で、積極的にアドバイスをしていました。この流れがやがて「ビットバレー」へとつながっていったのです。
ビットバレーが盛り上がる中、インターキューが上場
杓谷:「ビットバレー」という言葉は、私たちの世代にはあまり馴染みがないのですが、恥を忍んでお聞きします。それは会社の名前ですか?
加藤:いいえ、会社ではなく「ムーブメント」です。東京に出てきて、インターネット関連のサービスを提供する会社を起業しようという、一大ムーブメントがあったんです。
この「ビットバレー」という名前の由来は、西川さんが提唱した「Bitter Valley構想」にあります。渋谷を英語に直訳すると「渋=Bitter」「谷=Valley」になりますよね。これに、アメリカのIT産業の中心地「シリコンバレー」を掛け合わせて、「ビットバレー」という名称が定着しました。つまり、「渋谷を日本のITの拠点にしよう」という熱意から生まれた言葉なんです。音楽の「ウッドストック」のような、一種のムーブメントでした。
1999年、ネットエイジを中心に、ビットバレーを目指して多くの若者が集まりました。その中には、「ビットバレーアソシエーション」という交流会やメルマガを運営するNPOがありました。このムーブメントを牽引していたのが、現在も活動を続けるETICの宮城治男さんと、のちに独立系VC「イーストベンチャーズ」を創業する松山太河さんです。そして、彼らを支援していたのが、西川さんと後にGMOインターネットグループに改称するインターキューの熊谷正寿さんでした。
1999年3月には、「ビットスタイル」と名付けられた交流会の第1回が開催されました。同年8月、インターキューが上場。その頃、ビットバレーはまさに最高潮の盛り上がりを見せていました。インターキューの株価は、公募価格の5倍となる4,200円を記録し、時価総額1,300億円という驚異的な成長を遂げました。その成功を間近で見ていた「ビットスタイル」の参加者たちは、「次は自分たちの番だ!」という熱気に包まれていたんです。
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加藤:会社を作っても、資本金や信用力がなければ、電通や博報堂のような大手広告代理店とはなかなか取引口座を開けませんでした。そんな背景もあって、ビットバレーの起業家たちにとって「日広」はとても重宝されていました。
また、僕はインターキューのマーケティングに深く関わっていたこともあり、「どうすればインターキューのように広く認知されるのか?」と、たくさんの人に質問されましたね。
そして、2000年2月には、最後の「ビットスタイル」が六本木のディスコ「ベルファーレ」で開催されました。この回は伝説的なイベントとなりました。なんと孫正義さんが、自家用機をチャーターして、スイスのダボス会議から駆けつけたんです。
次回は2/27(木)公開予定(毎週木曜日更新)です。
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