「グレーゾーン金利」の撤廃とライブドアショックでもたらされた暗雲[第3部 - 第30話]
「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第30話。前回の記事はこちらです。

前回のお話では、世界最大の広告会社WPPグループ傘下の広告代理店オグルヴィからの打診で、加藤さんの日広がネオ・アット・オグルヴィ株式会社という合弁会社を設立するところまでお聞きしました。当時のWPP総帥マーティン・ソレル卿との出会いに関するエピソードは聞いているだけでも胃が痛くなりますね(苦笑)。

加藤さんのお話の中で、欧米の広告代理店の「1業種1社制」という考え方がありましたが、これは伝統的な広告業界における一般的な商習慣で、日本の広告代理店でも同業種の企業をひとつの営業局で抱えすぎないような配慮をしていました。
2005年、Appleの「iPod」全盛期のニューヨーク
杓谷: 加藤さんが2005年11月にニューヨークを訪問した時期は、私もニューヨークで留学生活を送っていたので現地の様子をよく覚えています。

「MDウォークマン、何それ?」留学先で味わったカルチャーショック
日本からニューヨークへ留学する際、スーツケースの限られたスペースに、愛用のSONY製MDウォークマンと、お気に入りのビートルズのアルバムを厳選して収めたMD(Mini Disc)を持って行きました。
留学先の学校で、MDウォークマンを取り出して音楽を聴いていると、クラスメイトが興味津々で「何それ?」と訊いてきました。どうやらMDウォークマン、とりわけMDを見るのが初めてだった様子で、「日本のオーディオ技術は進んでいるんだな」と誇らしい気分だったのですが、実は大きな勘違いだったことに、ほどなくして気づかされます。

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地下鉄に広がる「白いイヤホン」の謎
ある日、ニューヨークの地下鉄に乗っていると、乗客のイヤホンの線が、みんな揃って“白い”ことに気が付きました。
最初は「ニューヨークでは、白いイヤホンしか売ってないのかな?」と思っていたのですが、しばらくしてその白いイヤホンの正体がAppleの「iPod」純正イヤホンだとわかりました。つまり、地下鉄の乗客の多くが、iPodを使って音楽を聴いていたわけです。
マンハッタン中に広がる“影絵ポスター”
さらに街なかを見ると、ニューヨークの地下鉄の入口にはほとんどと言っていいほど、テレビCMでも使用されていた“影絵ダンサーとiPod”のポスターが貼ってあることに気が付きました。マンハッタン中がiPod一色だったわけです。
当時、日本では僕の周りでiPodを使っている人はほとんどいませんでした。パソコンと接続する前提のMP3プレーヤー自体がまだ普及していなかったため、そのポスターが「iPodの広告」だと気づくまでに時間がかかりました。デザインも文字情報がほとんどなく、視覚的なメッセージに頼ったものでしたから。
iPodは“日常”に、MDは“過去の遺物”に
アメリカでは、MDウォークマンを経由せず、CDウォークマンからパソコンに取り込んだ音楽をiPodで楽しむスタイルに進化していました。MDというメディアを知らないわけですから、クラスメイトが「何それ?」と訊いてくるのは当然ですよね。
セントラルパークでは、サイズの大きな第4世代iPodをリストバンドで二の腕にくくりつけてランニングをしている人たちをたくさん見ました。個人的には、「さすがにランニングには大きすぎない?」と思いつつ、当時のApple製品の存在感の大きさを目の当たりにしました。

その後、SONYもAppleのiPodに対抗するように、香水瓶を模した形状のネットワークウォークマンを発売しました。アメリカの発売直後に、マンハッタンの家電量販店Best Buyに足を運んだのですが、店員に鍵を開けてもらわないと実機を見ることができない不便な場所に置いてあったことに愕然としました。学生ながらに「日本のメーカーはこのままでは大変なことになるぞ」と思いましたね。

iPodがきっかけで、ITへ目覚めていく
これらの体験を通じて、「日本の外ではIT業界が世界を大きく変えようとしている」ことを実感し、IT業界に興味を持つきっかけになりました。とりわけAppleの魅力に取り憑かれていきました。この連載で初めて気がついたことですが、この約10年前に佐藤さんがMacと出会って受けたAppleの洗礼を、私はiPodで経験したわけです。
インターネットに接続できる携帯電話「BlackBerry」の普及
杓谷: この他に、この時期のニューヨークでよく覚えていることのひとつに、インターネットに接続できる携帯電話「BlackBerry(ブラックベリー)」が、会社から支給され始めたという出来事です。
ある駐在員が「これで会社に24時間見張られてしまう」と嘆いていたのをよく覚えています(笑)。

出典:ケータイ Watch「第219回:BlackBerry とは」(2005年3月付け)
日本ではフィーチャーフォン、いわゆる「ガラケー」(第15話参照)が1999年に登場して一般に広く普及しました。欧米で携帯電話が本格的に普及したのはこの「BlackBerry」が広まった2000年代中頃。つまり、日本の方が数年先を行っていたことになります。
というよりも、「日本だけが突出して早かった」と言う方が正しいかもしれません。ちなみに、「BlackBerry」は日本市場ではそれほど普及せず、欧米ほどの存在感はありませんでした。
ポップアップ広告を駆逐するGoogleツールバー
杓谷: 当時まだ学生だった私が、はっきりとGoogleの存在を認識したのはこの頃です。第17話で佐藤さんがお話していますが、この頃のアメリカのウェブサイトはポップアップ広告が氾濫していました。
これは、当時のバナー広告の課金方式が「インプレッション保証」で、広告を表示させることが広告媒体の収益に直結したため、ユーザー体験を無視した広告手法が蔓延していたのです。
コンピュータウイルス「トロイの木馬」も流行
また、当時は「トロイの木馬」というコンピューターウィルスも流行していました。ポップアップ広告を勝手に表示したり、コンピューターを再起動させたりと、悪質な動作を繰り返すひどい有様でした。
一説には、この「『トロイの木馬』はコンピューターウイルスソフト会社のマーケティングでばら撒かれたのでは?」という都市伝説すらありました。
Googleとの“最初の出会い”は、親切なツールバー
そんな混沌としたネット環境に登場したのが、Googleが無料で提供したインターネット・エクスプローラー用のツールバーです。
これをインストールをすると、あの煩わしいポップアップ広告を自動でブロックしてくれるのです。「こんなツールを無料で提供してくれるなんて!」と好感を持ったのが私にとってのGoogleとの最初の出会いでした。


後に、Googleがこうしたユーザビリティを損なうバナー広告を忌み嫌っていたことを知り、「そういうことだったのか!」と納得しました。
2006年1月14日発売の『週刊ダイヤモンド』で日広が取り上げられる

2005年11月、こうした状況下のニューヨークのオグルヴィ本社でMOU(Memorandum of Understanding:覚書のこと)を交わし、2006年4月に日本でネオ・アット・オグルヴィ株式会社を合弁で設立する契約を結びましたが…この頃が、まさに経営者としての僕の絶頂。自分でも「我が世の春」と感じるほどでした。
加藤: 総売上73億円、申告所得17億円、そして8億円超の法人税を納めたときには、さすがに身震いしたのを覚えています。2006年1月14日発売の『週刊ダイヤモンド 新春特大号』で行われた、会社設立20年以内の非上場企業の中で法人申告所得が3年連続で伸びている会社を対象にした調査で、日広は第4位に選ばれました。そしてなんと、記事によれば調査対象企業の中で、成長率はトップだったようです。

この好調の背景には、当時急成長していた検索連動型広告の存在がありました。たとえば、GoogleのAdWordsやOvertureのスポンサードサーチ、第15話で紹介したモバイルキャリア広告などがいずれも絶好調。
それらに支えられたメディアレップ事業や新規事業も、まさに「出来すぎ」なほどの結果が出ました。僕が日広を経営していた1992~2008年の間で最も好調な時期でした。しかし、この『週刊ダイヤモンド 新春特大号』が発売された2006年1月に大きな転機が訪れます。
「グレーゾーン金利」の撤廃につながる最高裁判決
加藤: 2006年1月13日、最高裁で「グレーゾーン金利」に関する重要な判決が下されました。これは、消費者金融業界にとって大きな転機となるもので、この判決をきっかけに「グレーゾーン金利」が実質的に撤廃されていきました。
「グレーゾーン金利」とは、「利息制限法」で定められた上限金利(年15~20%)と、「出資法」で定められた上限金利(年29.2%)の間の金利帯のことを指します。この金利帯は、法律上は「違法ではないが、必ずしも合法とは言えない」という曖昧なゾーンだったため、「グレーゾーン」と呼ばれていました。
当時、多くの消費者金融は、この20%~29.2%の範囲で貸し付けをしており、実質的に高金利状態が続いていました。
この最高裁の判決によって、20%を超える金利は原則違法と認定され、過去にさかのぼって返還義務が発生しました。
日広にも直撃した判決の余波
この判決は、消費者金融業界だけでなく、広告業界全体にも大きく影響を与えることになります。第32話で詳しく紹介します。
この影響を大きく受けたのが、日広が長年関わっていたGMOインターネット(旧インターキュー:第8話、第13話参照)です。同社は、判決の前年、2005年9月にオリエント信販株式会社という消費者金融会社を買収していました。まさに、その買収したばかりの会社に、過去の過払い金返還義務が生じたのです。
GMOインターネットは、日広の長年のお得意先であり、メディア事業でも大仕入先でした。しかし、この判例の結果、GMOグループとして広告出稿を大きく縮小する判断がなされ、その影響で日広の売上にも大きな打撃が及びました。
そして追い打ち、2006年1月16日「ライブドアショック」
加藤: さらに、追い打ちをかけたのが「ライブドアショック」です。
2006年1月16日、『週刊ダイヤモンド 新春特大号』が発売されたわずか2日後、六本木ヒルズのライブドア本社などが証券取引法違反の疑いで東京地検による強制捜査を受けました。当時、六本木ヒルズには日広のクライアントが4社入居しており、中でもライブドアは重要な取引先でした。
ライブドアとはオン・ザ・エッヂ時代からお取引がありましたが、本格的に取引が増え始めたのは2004年頃から。第12話で、サイバーエージェントの創業に深く関係し、日広も代理店になっていたクリック保証型広告のバリュークリックジャパンを、2004年にライブドアが買収して「ライブドアマーケティング」とし、そこから取引が拡大していきました。
ポータルサイト「Livedoor」など、ライブドアが運営するサービスの広告枠は日広にとっても大きな売上源でしたが、強制捜査をきっかけに広告出稿が急減。業績に深刻な影響を与えました。
「我が世の春」から一転して窮地に陥る
加藤: 日広の大口顧客であったGMOインターネットとライブドアが同時にこのような状態になり、日広の経営を直撃したんです。
2006年3月には、月間売上が初めて10億円を突破。しかし、ここをピークに業績は急落し、わずか半年で6億円強まで激減してしまいました。
日広は、創業間もない頃から成年誌の広告(第8話参照)で利益を出しており、創業以来ずっと黒字だったんです。潤沢な自己資金で運営しており、資金調達の必要性を強く感じてはいなかったので上場を目指していませんでした。むしろ「上場しない」ことで、受注できた仕事もたくさんありました。
2006年夏に初めて赤字になり、資金繰りも厳しく「これは、本当にやばい」と思いました。実は、第29話でお話ししたオグルヴィとの合弁会社設立もほぼ同じタイミング。これも負担になり、日広自体の運営がかなり厳しくなってしまいました。
2006年10月、佐藤さんにGoogleの「ザイトガイスト」にご招待いただく
加藤: まさに地獄のような時期を迎えていた2006年10月、僕は佐藤さんからご招待いただき、米Google本社で行われる「ザイトガイスト2006」に参加することになりました。内心では「それどころじゃないんだけどな」と思いながらの参加でした(苦笑)。

次回は、Google主催の招待制カンファレンス「ザイトガイスト」の様子を紹介します。また、現在のGoogleの中核を担う企業の買収や、自社開発の「Gmail」が登場します。
次回は7/3(木)公開予定(毎週木曜日更新)です。
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