大手出版社と直接取引できるようになるのは”来世紀中”は無理!?[第1部 - 第8話]
「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第8話。前回の記事はこちらです。
外資系グローバル企業を顧客に持つ海外の大手広告代理店といえど、日本でテレビや雑誌に広告を出稿するには、日本の広告代理店を通す必要があったわけですね。
メディアバイイングの仕事は大変でしたが、その分やりがいもありました。この経験は、後のインターネット広告にも存分に活かされます。
ここからは、日広(現GMO NIKKO株式会社)の創業者の加藤さんにこの連載に加わっていただこうと思います。当時の一般的な広告業界の様子を雑誌広告の視点から振り返りつつ、インターネット広告市場の誕生やGoogle AdWordsの日本市場参入時のエピソードなどをお話しいただきます。インターネット広告の代理店の視点が加わることで、より理解が進むと思います。
はじめまして、加藤と申します。1992年に日広を創業して、雑誌広告の販売からスタート、1996年から2008年頃まで黎明期のインターネット広告の販売に携わりました。第7話では、佐藤さんの視点から雑誌への広告出稿の難しさについて言及されていましたが、当時の一般的な広告業界の様子を解説する意味を含めて、僕が経験した雑誌広告の世界についてご紹介したいと思います。
徳間グループ2,000人の新しい流通チャネルを作れ!
加藤:1986年、関西学院大学入学後に学生企業リョーマに参画しました。リョーマの創業者達が1989年にダイヤル・キュー・ネットワークを設立したのを機に、翌90年に上京。同社はNTTの新サービス「ダイヤルQ²」(電話番号0990で始まる情報料金課金回収代行サービス)を利用した日本で初めてのコンテンツプロバイダー事業者で、当時東大2年生の玉置真理さんが社長であったこともあり、メディアからも注目されていました。しかし後に、偽造テレフォンカード問題や不純異性交遊問題などの煽りを受けて、ダイヤルQ²自体が社会問題化してしまいました。NTTが事業者への支払サイクルを2カ月後ろ倒しにしてブームの沈静化を図ったことで資金繰りが厳しくなり、1991年4月に事実上の経営破綻を迎えることになります。
提携先でもあった徳間書店がダイヤル・キュー・ネットワークに可能性とシナジーを見出し、受け皿となる法人を作ってくれたので、翌5月に僕は他の役員・社員15名と共に株式会社徳間インテリジェンスネットワークに転籍しました。
当時の徳間書店は書籍の出版だけでなく、実写映画の大映、アニメ制作のスタジオジブリを擁し、原作から制作、配給・宣伝までをグループ全体で取り組んでいる総合出版会社でした。「徳間ジャパン」というレコード会社まで持っている大企業だったのですが、代表の徳間康快氏からは、「これからは放送と通信が融合する時代が来る。書籍、映画、アニメ、音楽が全部1つの管で流通する時代が来るんだ。君たちには、徳間グループ2,000人が生み出すコンテンツの新しい流通チャネルを作ることを期待している」と激励されました。
配属は営業企画部で、徳間グループのコンテンツをダイヤルQ²回線にのせるサービスの事業化が当座の役目でした。ダイヤルQ²の他にも、東京FMとの「PCM音声放送」と呼ばれるインタラクティブラジオのサービス開発案件も担当しました。通信衛星やISDNなど「高度情報社会」の新しいインフラを使ってどんなコンテンツを作るかを企画していました。
徳間書店は、この5年後の1996年、博報堂や旭通信社などが出資して設立した「メディアレップ」と呼ばれるインターネット広告専門の広告代理店、デジタル・アドバタイジング・コンソーシアム株式会社の創業株主にも名を連ねています。インターネットが商用解禁される随分前から、新しい流通チャネルの開発を模索していたんですね。「メディアレップ」については、次回以降の記事で詳しく触れていきます。
1992年8月、日広(現GMO NIKKO)を創業
加藤:僕はダイヤルQ²を使った販促や広報の与件も担当し、映画『おろしや国酔夢譚』『紅の豚』などの宣伝PRが進行していく過程を目の当たりにしました。もちろんおもしろくはあったのですが、約1年4カ月在籍した後に退職することを決めました。
理由としては、ダイヤル・キュー・ネットワークから続いていた男女のマッチング伝言サービスが終了することになったからです。僕はその事業を救うために徳間インテリジェンスネットワークに移籍したようなものだったので、それをやめるのであれば、徳間グループにいてもあまり意味がないと感じていました。
そんな時に、ツーショットダイヤル業界の大手2社から声をかけられました。ツーショットダイヤルとは、男性はダイヤルQ²か一般電話回線の電話番号に、女性はフリーダイヤルに電話をかけて、ランダムに結線して気に入らなければワンプッシュで別の異性につながるというマッチングサービスでした。
彼らには基本的に表の商売があって、新宿でセールスの会社をやっていたり、渋谷で飲食店を経営したりしていましたが、その裏で別の会社を作って、ひっそりとツーショットダイヤルサービスを運営していました。つまり、世を忍んでやっていたんですね。
ここで重要になるのが、女性用のフリーダイヤルの宣伝と、男性がかける電話番号の宣伝をどれだけ多く効率的に打てるかどうか。マッチングさえすれば1分100円で課金されるので、宣伝が全てです。ところが僕の知っていた大手2社とも、表立って堂々と広告の調達ができないわけです。
そんなわけで、彼らは僕に「俺の会社の宣伝をしてくれ!」と連絡をしてきました。「何をするんですか?」と聞くと、成年誌、グラビア誌、劇画雑誌、情報誌、さらには過激な性表現がOKのレディースコミック誌などの広告枠を仕入れてこい、とのことでした。「いや僕、紙広告はやったことないので」と言ったのですが、「金はやるからとにかくやれ!」と言われて、引き受けるしかありませんでした(苦笑)。
こういった経緯で僕は1992年8月、日広(現GMO NIKKO株式会社)を25歳で創業しました。
飛ぶように売れた成年向けの雑誌の広告販売
加藤:結論から言うと、日広を創業してめちゃ楽しかったです。一番は、ツーショットダイヤル業界の最大手2社から声をかけられたこともあって、予算が青天井だったこと。成年誌やレディースコミック誌におけるコール促進など、「反響が数えられる」広告枠を仕入れるのが仕事でした。ひたすら諸先輩の「まわし」広告代理店や、雑誌の版元(出版社)を回る、電話する、価格交渉する毎日でした。
佐藤:「まわし」とは広告業界の専門用語で、テレビや雑誌など、特定の広告枠を買い付ける口座を持っている広告代理店が、口座を持てない広告代理店などに広告枠を仲介することです。第7話でDDB、BBDOなど外資系広告代理店が、僕のいた旭通信社に広告枠の買い付けを依頼していましたが、この場合は旭通信社が「まわし」広告代理店の役割を担っている形になります。
加藤:最初の1カ月にして、30ページくらい売れたんです。広告の掲載料は1ページ10万円、15万円といった価格帯で、カラーでも40万円ほどでした。翌々年の94年末には、月300ページは取り扱っていました。平均すると毎日10ページは広告を入稿していた計算で、日々大量の成年誌が広告掲載誌で届いていました。社員は僕を入れて総勢3名。93年夏に借りた南青山の事務所は、骨董通りの突き当りの雑居ビルの4階。広告枠を仕入れさえすれば、飛ぶように売れていく日々でした。
大手出版社と直接取引できるのは“来世紀中”は無理!?
加藤:その中でも広告主に人気があって、かつページあたりの料金単価が高かったのは、コンビニで売っているグラビア誌や競馬パチンコの情報誌でしたね。『スコラ』『月刊プレイボーイ』『デラべっぴん』『SPA!』などは発行部数も多くて人気でした。
ところがこうした人気雑誌の版元は集英社や講談社などの大手だったので、アポを取って伺ってもなかなか口座契約をしてもらえません。「今度のお客さんは前金で450万円(定価の倍以上の金額)を払うから広告出稿させてください」と言っても、「そこは電通が買うということが20年前から決まっている」と断られることが何度もありました。「まわし」代理店を紹介するのでそこから広告枠を仕入れてくれ、と案内されるのも日常でした。
「まわし」代理店は神保町や小川町に集中していました。駆け出しの僕は舐められていたのか結構マージンを抜かれてしまって、業種的にもバカにされていました。どの雑誌も誌面の前の方を飾るのはほぼ大手企業という序列です。創業2、3年目の頃は、とにかく広告会社としてマトモにお付き合いしてもらうために、数多くの出版社の営業担当者や、広告枠を「まわし」てくれている広告業界の諸先輩方に夜な夜なお金を使ってましたね。
今でも忘れないのが、1995年に某大手出版社に取引口座を作ってくれと飛び込みで行った時の出来事です。「君いくつ?」と聞かれて「27です」と答えると、「会社を作ったのはいつ?」とまた聞いてくるので「3年前です」と答えました。すると、「加藤さん、悪いけど口座が作れるのは来世紀中は無理じゃないかな」と言われてしまいました。内心「ふざけんな!」って思いましたね。
雑誌もテレビも、料金表は存在しているのにその料金を払っても買えないスペースが大量にあるということが、だんだんとわかってきたんです。当時の僕にとっての広告ビジネスとは、「広告枠」の売買でした。そして、大半の優良な雑誌の人気枠は大手企業によって寡占されているという現実を突きつけられました。新参の立場では成長に限界がある、ということに気づいてしまって、27歳の僕は懊悩(おうのう)してました。
インターネットの衝撃と「インターキュー」との出会い
加藤:そんな閉塞感に苛まれた1995年の春先、某ツーショットダイヤル事業者のオーナーが電話で「インターネットって知ってるか?」と聞いてきました。「知らないです」と返すと、「アメリカでは、今インターネットっていうのがあって、俺たちみたいなマッチング産業を電話じゃなくてインターネットでやってるんだ」って言うんです。デモンストレーションがあるから一緒に見に行こう、と誘われて行ってみると、インターネットを電話回線でつなぐときの「ピーヒョロロ」という音が流れてきて、「なんだこれは!」と衝撃を受けました。僕はすぐにMacにつなぐモデムを購入して、自分でもインターネットに接続してみました。
マッチング産業がこっち(インターネット)に移ると確信しましたね。僕が今までやっていた「電話回線に電話して……」みたいな世界は終わる。「もう、絶対こっちや!」と思いました。でも僕にできることは、広告を売ることだけです。だから、インターネットを普及させる会社の広告を雑誌に打とう、と最初に決めました。
そんな折に、熊谷正寿さん(現GMOインターネットグループ代表取締役)と、徳間時代まで同僚だったダイヤル・キュー・ネットワークの元社長玉置真理さんが組み、ダイヤルQ²を使ってインターネットに接続する「インターキュー」というインターネット・サービス・プロバイダ(Internet Service Provider、以下ISP)を立ち上げました。このサービスの誕生には、僕も深く関わりました。誰でも1分でインターネットにつながる社会を実現するという「インターキュー」の広告掲載を、日広が担うことになったんです。
インターネットとパソコン雑誌の世界に風通しの良さを感じた
加藤:そういった経緯で最初に広告枠を仕入れに行ったのが、株式会社インプレス(以下インプレス)でした。
杓谷:インプレスはこの連載が掲載されている『Web担当者Forum』の運営会社でもありますね。
加藤:インプレスは、アスキー(ASCII)の創業メンバーである郡司明郎さん、塚本慶一郎さんが、同じく創業者の西和彦さんと袂を分かって1992年4月に市ヶ谷に設立した会社です。僕がインターネットのことを猛勉強していた1995年の夏頃によく読んでいたのが、インプレスが出版していた『iNTERNET magazine』でした。
インターキューの広告を出稿しようとインプレスを訪ね、「パソコン雑誌の広告をやりたいんですが」と相談すると、「加藤さん、成年誌専門じゃないですか」と。「いや、実はISPの広告をやろうと考えていて」と返すと「ええ!? そうなんですか、いいですよ!」と言って、すぐに口座を開いてもらえました。前述のように、伝統的な大手出版社や雑誌広告業界の中で日広は虐げられていたので、古い出版社よりもこれから伸びる新しい出版社のほうが風通しがいい、と明るい兆しを感じましたね。
この出来事をきっかけに、パソコン雑誌にISPの広告を売っていこうと考え方が変わっていったんです。「もう成年誌には力をいれない。これからはパソコン雑誌、インターネット入門誌をやっていくんだ!」と社員に説明していました。
1995年11月末、Windows 95の発売に合わせて広告を掲載
1995年11月末、Windows 95の発売に合わせて、ダイヤルQ²を利用したインターネット接続サービス「インターキュー」の広告を『FLASH』と『スコラ』という雑誌に掲載しました。時代は少し後になりますが、下図は1996年11月号の『iNTERNET magazine』に掲載された「インターキュー」の広告です。
杓谷:広告業界での歴史が長い旭通信社に所属していた佐藤さんと、創業して間もない広告代理店日広の加藤さんが、雑誌広告を通じて奇しくも同じようなご経験をされていたことになりますね。そしていよいよ、インターネット広告市場が本格的に誕生した1996年を迎えることになります。
次回は1/9(木)公開予定(隔週木曜日更新)です。
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