2001年、Google日本語版サービス開始「なんだこの空白だらけのサイトは!」[第2部 - 第17話]
「インターネット広告創世記〜Googleが与えたインパクトから発展史を読み解く~」シリーズ第17話。前回の記事はこちらです。

インターネット・バブルの最盛期にサイバーエージェント、楽天、オン・ザ・エッヂ、そして加藤さんが深く関わったまぐクリックが上場していく中、佐藤さんがいたInfoseek Japanは楽天に買収されましたね。

楽天によるInfoseek Japan買収劇は、2000年後半頃でした。この頃、Googleの日本語版サービスが始まります。Googleを初めて見た時の僕の衝撃を理解してもらうために、当時のインターネット広告業界の様子がどうなっていたかを解説したいと思います。
パソコンの画面を埋め尽くしていったバナー広告
佐藤:90年代、ポータルサイト戦争を勝ち抜くために必要とされた要素は「6つのC」と呼ばれ、次の6項目を強化することが重要とされていました。
- Contents(コンテンツ)
- Commerce(コマース)
- Context(コンテキスト)
- Communication(コミュニケーション)
- Community(コミュニティ)
- Connectivity(コネクティビティ)
このうち「Context」は「文脈」という意味ですが、ポータルサイトの文脈では検索エンジンを指します。「Communication」はウェブメールやチャット機能を指し、MSNは「Hotmail(ウェブメールサービス)」や「MSNメッセンジャー(チャットツール)」を提供していました。
また、「Connectivity」はインターネット接続のことを意味します。Yahoo! JAPANが数あるポータルサイトの中で圧倒的な存在になった背景には、2000年代前半にモデムを無料配布し、接続環境(Connectivity)を大幅に強化したことが大きな要因となっています。
当時、ポータルサイトの収益のほとんどは広告でした。広告以外の収益源も、基本的にはアクセス数に比例するものがほとんどだったため、ユーザーを外部サイトへ流出させず、自社サイト内で回遊させることが最優先でした。その結果、各ページには自社サービスへのバナーやリンクがこれでもかと貼られていきました。
広告で埋め尽くされるウェブページ
さらに、広告の課金モデルは第10話、第11話で紹介した通り、「インプレッション保証型(表示回数ベース)」が主流だったため、サイト内の広告枠を増やすことが求められました。ウェブページの空白スペースは次々と広告で埋め尽くされ、やがてスパムのようなポップアップ広告が氾濫する事態にまで発展しました。
極めつけは、ある総合広告代理店の担当者が語った次の一言です。
テレビは画面いっぱいに広告を表示できるのに、インターネット広告は画面の一部にしか表示できない。これでは勝負にならない。ホームページ全体を広告でジャックさせてほしい。
この要望を受け、たとえばドラマのオンエア開始に合わせて、ポータルサイトのトップページは検索部分を除き、すべて広告画像で埋め尽くされることもありました。さらには、画面の上から紙吹雪のように何かが降ってくる演出も登場しました。
広告主側から見れば一理あるものの、ユーザーの利便性を大きく損なう仕様であり、エンジニアからの評判は非常に悪いものでした。しかし、1日で数百万円以上の売上を生み出せる広告商品はこの方法しかなかったため、導入せざるを得なかったのです。
Google日本語版がサービス開始「なんだこの空白だらけのサイトは!?」
佐藤:当時、インターネット業界全体がパソコンの画面をバナー広告で埋め尽くそうとしていました。そんな中、私はGoogleの日本語版(google.co.jp)のサービス開始に立ち会い、初めてそのウェブサイトを目にした瞬間、衝撃を受けました。
なんだこの空白だらけのサイトは!?

出典:Internet Archive
佐藤: Googleのトップページには検索ボックスがあるだけ。極めてシンプルなレイアウトでした。当時の検索エンジンは、Infoseek、goo、AltaVistaなども含め、ポータルサイト化し、空白スペースをバナーで埋め尽くす方向に進んでいたため、Googleのデザインはまったくの逆を行くものでした。
Googleの思想「1秒でも早くユーザーを求める情報へ」
佐藤: 後になって知ったことですが、このシンプルなレイアウトこそがGoogleの思想を強く反映したものでした。
ポータルサイトは広告収益を上げるために、ユーザーをできるだけ長く滞在させることを目的としていました。しかし、Googleの考え方は真逆で、
1秒でも早く、ユーザーを求める情報があるウェブサイトへ誘導する
ことを目指していたのです。そのため、トップページに余計なバナー広告は一切必要なかったのです。
当時のGoogleの広告商品は、検索結果の上部に表示される 「プレミアム・スポンサーシップ広告」(以下「プレミアム広告」)というインプレッション保証型のテキスト広告のみでした。バナー広告のような画像を使った広告商品は一切なく、「これ1本で収益化は大丈夫なのか?」と疑問に思ったほどです。この時点では、現在のGoogle 広告につながる「Google AdWords」もまだ存在していませんでした。
しかし、広告でウェブサイトをジャックするようなことを考えなくてもよく、検索エンジンビジネスに純粋にフォーカスできる点が、とてもおもしろそうだと感じました。

出典:Internet Archive
佐藤:当時、Infoseekのエンジニアたちは自分たちで検索エンジンを開発していました。それにもかかわらず、みんなこぞってGoogleを使い始めたんです(笑)。
オフィスを歩くと、エンジニアたちのパソコンの画面がGoogleになっているのがすぐにわかりました。自分たちが検索エンジンを開発しているだけに、その技術力と精度の高さを一瞬で理解したのだと思います。
突然、Googleからお声がかかり、アメリカ本社で面接することに
佐藤: Infoseek Japanが楽天に買収された後、自社の検索エンジン開発が中止されることが決まり、「これから何をしようか」と考えていた矢先、Googleから声がかかりました。履歴書を送ると、「本社がとても興味を持っているので、ぜひアメリカの本社で面接を受けてほしい」と言われ、サンフランシスコ近郊のマウンテンビューにあるGoogle本社へ向かうことになりました。

出典:©2025 Google画像 ©2025 Airbus, Maxer Technologies
アメリカの空港に到着し、そのままオフィスへ直行。Google社内でシャワーを借りて面接に備えました。
受付に入ると、天井から吊るされたモニターに世界中の検索語句がリアルタイムでスクロール表示されていました。その光景を見て、「インターネット=検索なんだ」 と強く実感しました。「検索サービスの醍醐味はこれだ! ここに来るしかない!」 と直感的に思いましたね。

出典:ETH Zurich (https://www.ethworld.ethz.ch/events/explore/study_trip/weblog_11/26.jpg)
佐藤: Googleのオフィスは、当時の一般的な会社のイメージとはまったく違いました。
ラバランプ、バランスボール、グランドピアノ、ゲーム機——まるでリラックスした学校のような雰囲気。「何だこいつら、弾けてるな!」と、シビれましたね。今でこそこうしたオフィス環境を真似する企業は多いですが、当時としてはかなり珍しいものでした。
下の動画は1999年頃のTGIF(Thanks God Its Fridayの略で、毎週金曜の夕方に行われるGoogleの社内ミーティング)の様子です。
佐藤: 面接では、グローバル営業を統括していたオーミッド・コーデスタニ(Omid Kordestani)に会いました。2階の部屋で話した後、さらに4人と面接。その後、お昼は社員食堂「チャーリーズカフェ」で食事をしながら面接が続きました。
チャーリーズカフェは、今ではシリコンバレーの標準になっている「社員食堂文化」の先駆けです。シェフのチャーリー・エアーズ(Charlie Ayers)は、ロックバンド「グレートフル・デッド」の専属シェフだったこともあるそうです。
カフェを歩いていると、「日本から来たの?」と気軽に声をかけられ、アットホームな良い雰囲気でした。

出典:INTERNET Watch 「Google、オークション型広告「アドワーズ広告」を本格開始
~落札価格×クリック率で掲載順位が決定」(2002年9月18日付)

出典:Chefcharlieayers.jpg is licensed under PDM 1.0

1999年のGoogleのオフィスのチャーリーズカフェの様子
佐藤:オーミッドから「Infoseekにいたんだよね? 実は、Infoseek本社からGoogleに来た人がいるよ」と紹介されたのが、バートでした。彼は第11話で、自分のキャビネットを開けてアナログな広告の在庫管理方法を教えてくれた人でした。
バートは「ここはライトプレイス(Right Place)」だと言ってくれました。Infoseekでは、日本担当の責任者が私の在籍期間中だけでも9人も変わり、マネジメントに苦労しました。バートも同じ経験をしていたからこそ、「ここ(Google)はいい場所だよ」と言ってくれたのだと思います。
その日はGoogleが予約してくれた近くのブティックホテルに宿泊し、翌朝の飛行機で帰国しました。金曜に休みを取り渡米、そのままGoogle本社で面接。Google手配のホテルに1泊し、翌日の土曜朝に帰国の途へ。日曜の夕方に日本着。そして月曜から通常出社という、なかなかの強行スケジュールでしたが、とても充実した旅でした。
入社の決め手となったInfoseek時代の経験と検索ビジネスへの強い思い
佐藤: 帰国してからわかったのは、このポジションにはかなり多くの候補者が面接を受けていたということです。僕の後にも何人も面接を受けていたようで、なかなか結果が出ませんでした。
応募していたのは、外資系企業出身で英語が堪能、MBAを持っているような優秀な人たちばかりだったようです。でも僕は、検索サービスや広告の魅力を誰よりも理解している自信がありましたし、何よりもそれに対する情熱は誰にも負けないと思っていました。「Googleのサービスとビジネスをやるなら、僕しかいない!」という強い思いがあったんです。
日本法人でのアドバイスと現場からの強いプッシュでGoogleへ入社が決定
当時、Google日本法人にはすでに2人の社員がいました。僕は何度か訪問して、「まだ決まらないんですか?」と話をしに行っていました。彼らは検索サービスや広告の経験があまりなかったので、自然と僕がアドバイスする場面も出てきました。
Infoseek時代の経験から、
そのキーワードなら、あそことあそこの広告主が興味を持ちそうで、単価は10円くらいで取引されていたよ。
この代理店はこういうことを言ってくるかもしれない。
と、具体的な情報を伝えることができました。そうした知識が役に立ったのか、日本法人の現場からの強いプッシュもあり、最終的に広告営業のセールス&オペレーション・ディレクターという役職でGoogleに入社することが決まりました。
採用の決め手となった理由と運命的な最終面接
オーミッド・コーデスタニは、現場の声を大切にするタイプのマネージャーでした。さらに、彼は過去に「3DO」というゲーム機の販売のために長期間日本に滞在していた経験があり、日本の商習慣が欧米と大きく異なることをよく理解していました。そのため、日本の検索広告市場に詳しい僕を採用することを決めたのではないかと思います。
2001年9月11日、ワールドトレードセンターに飛行機が突入する様子をTBSの『NEWS23』で見て、「大変なことが起こった」と思った翌日、最終面接が行われました。
当時、Google日本法人は渋谷のセルリアンタワーのレンタルオフィスにあり、オーミッドとセルリアンタワーで朝食をとりながら最終面接を行いました。そして、2001年10月、Google日本法人の4番目の社員として入社することが決定しました。
Google全体の社員番号としても、僕は400番台だったと思います。

出典:『月刊ウェブクリエイターズ』2002年12月号(佐藤さん所蔵)
第2部メディアレップ編 完
次回は4/3(木)公開予定(毎週木曜日更新)です。
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