人生の分岐点では「俯瞰する」――「Web仙人」こと増井氏のキャリア観
連載「29歳の自分に伝えたいこと」の第2回は、フォースの代表をされているWeb仙人 増井 達巳氏が登場! 自分のキャリアにおいて何が必要かを考えて、独自の経歴を積まれてきた増井氏は、2001年にキヤノン公式Webサイトの運営責任者になり、2011年には第5回企業ウェブ・グランプリでグランプリを受賞されました。そして現在は、ご自分の会社「フォース」を起こされ、それまでのキャリアを活かしてご活躍されています。Web仙人は、はたしてどのような経験から生まれたのでしょうか?(編集部)
立場が変わり、考え方を変ようと努力した29歳
29歳当時、私はオフィスコンピュータでお客様のアプリケーションシステムを受託開発するシステムエンジニア(以下SE)をしていました。25歳で営業部門からSE部門に異動となり、COBOL(コボル)やアセンブラのプログラマーとしてかなりの本数のプログラミングをこなしてきましたが、29歳当時はシステム設計を行うSEになって間もない時でした。
同じ部門内での関係ですが、いわば、プログラムの受注者側から発注側に立場が変わったばかりで葛藤もありました。自分なら短時間で組めるプログラム。しかもテストするとバグが多かったり、完成に時間がかかったり…で、ついつい自分で手を動かしたくなってしまいました。
その葛藤やストレスを解消するために「考え方を調整する必要」がありました。あたりまえのことですが、人の能力には個人差があり、「チーム力を上げるためには、人を育てる必要があること」、「人を育てるためには、方向性を示し、やらせてみて、ほめていくこと…が必要だ」と気づき始めました。
連合艦隊司令長官、山本五十六の有名すぎる名言「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」をシステム開発の仕事にも当てはめようと思ったものの、すべてを自分でやってしまいたい…やったほうが早いと考えていた、まだ29歳の(血気盛ん?な)私には、考え方を変えるのは挑戦でした。
でも振り返ってみると、仕事に対する考え方・取り組み方を変えようと努力したこの時の経験が、その後経験する大規模プロジェクト、さらにはWeb選任部門立ち上げやその後の組織運営、チームビルディングの基盤になっているとあらためて思います。
若いうちは営業経験をしたほうがいい
29歳当時の仕事に至るまで、実はかなりユニークな道を選んできましたので、その道を振り返ってみたいと思います。
SEを目指し通っていたコンピュータプログラミングの専門学校時代、経営学の講師と、将来について話し合う機会がありました。その講師が「これからのエンジニアには営業力が必要、若いうちに営業経験をしたほうがいいよ」という言葉が妙に頭に残ったのを覚えています。
それで、その言葉を実践すべく、専門学校卒業後、外資系企業に営業職で就職しました。そして23歳の時、オフィスコンピュータの直販会社(当時キヤノンシステム販売株式会社)の採用募集を新聞で見つけ、営業経験とSEになる道の両方を得られる可能性を信じて、転職しました。
採用面接の際、「SE希望ではないのか?」と何度も聞かれましが、営業職での採用をお願いし、オフィスコンピュータの直販営業として入社しました。この転職がその後のキヤノンライフのスタートでした。
直販営業は想像していた以上に厳しい世界で、当時リースで月何万あるいは何十万もするオフィスコンピュータが簡単に売れるはずもなく、ひたすらニューコールをしてテリトリーを歩く日々でした。
そんな私ですから、もちろん受注がない時期は悩むことも多く、自分の選択は間違っていたのか、と思うこともありました。しかし、大規模システムを受注したり、大規模SI会社など競合ひしめく難しい案件を受注することができた時には、「一人前の営業マンになれた!」と感じました。
2足の草鞋で経験を積む…そしてWeb仙人になる
その後まもなく、その選択が活かされるキャリアの道を歩むことになりました。
29歳当時、アップル社のマッキントッシュやIBM社のThinkPadなどのWindowsパソコンを販売する直営ショップ(ゼロワンショップ)の地方出店の計画が進んでいたのですが、私は、四国の直営ショップに店頭部門の店長、兼オフィスコンピュータ外販部門のSEとして転勤することになりました。社内で初めて、「営業とSE、2足の草鞋をはく立場」で仕事をすることになったのです。
少数精鋭で組織編制される地方拠点において、営業力のあるSE、システムがわかる営業という、それまでの経験から生まれた少し変わった立場は、自分の実力以上に有用な人材として評価していただき、お客さまや職場の仲間からの信頼を獲得することができました。加えて、ショップ店長およびSE部門長として自分で決定できる仕事の範囲が広がったので、「地方ならではの経験」をたくさんすることができました。
たとえば、オフィスコンピュータではなく、マッキントッシュやWindowsパソコン上で、データベースソフトを使ったシステム開発をしたり、UNIXのオフィスコンピュータとWindowsパソコンのデータ変換やデータ共有をしたり、現在で言うオープン系のシステム開発をたくさん経験することができたのです。その流れで、社内で初のJavaエンジニアになる道も開かれていきました。
35歳の時、本社(当時キヤノン販売株式会社)のSE部門に転勤となりましたが、いったん歩み始めた異例なキャリアの道はさらに拡張し、SE企画課、オープンシステムSE課、プリンティングシステムSE課、に加え、直販のBC(ビッグカスタマー)事業部を支援するBCSE課、映像情報販売事業部を支援する東京システムSE課という5つの課を兼務することになりました。
本音を言えば、四国でのんびりしていたかったのですが、いったん歩み始めたキャリアの道は簡単に後戻りできるわけはなく、ひたすら突っ走るだけでした(笑)。
社内のさまざまな部署との関わりを経験し、インターネットの技術もそれなりに身につけていた私に、次に与えられたのは、新規事業開発のミッションでした。さらにその後、グループ関係会社を含む全社的なBPRプロジェクトのPMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)のメンバーとなり、Web戦略プロジェクトの成果物としての組織、Webマネジメントセンターの初代センター長になったことが、Webに携わるキャリアのスタートでした。
2001年から早期退職するまで、キヤノン公式Webサイトの運営責任者という重責を任せていただきました。2011年、第5回企業ウェブ・グランプリでは「キヤノンWebサイト」がベストグランプリを受賞しました。チームメンバーが頑張った「キヤノン製品情報」、「ソリューションサイト」も部門賞をいただき、加えて「チームビルディング賞」も受賞したとき、「チームで成果を上げることの大切さに気づいた29歳当時の仕事の取組み方が実を結んだ」思いがしました。
「Web担当者Forumミーティング 2011 Spring」の基調講演では、『Web担当者からWeb「マスター」へ ~Web業界の仙人が語る~』というテーマでお話しさせていただきました。2013年からは合同会社フォースの代表として、引き続きWeb業界で(この時つけていただいた「Web仙人」というニックネームで)仕事をさせてもらっています(笑)。
29歳の自分へ、そして29歳の皆さんへ
今回この「29歳の自分に伝えたいこと」というお題をいただき、自分のキャリアを振り返ってみましたが、バラエティ豊かなキャリアだったなぁ…とあらためて思いました。29歳の自分に言うことがあるとすれば、「早く独立して起業しなさい!」かもしれません。
今の時代、終身雇用という概念は薄れつつあり、転職を機にキャリアを広げていくことも珍しくなくなりましたが、私が29歳のころは転職、あるいは独立起業というのは、冒険でした。
幸い私の場合、「社内転職…社内起業?」とも言えるようなキャリアを経験してくることができ、その過程での挫折や、そこから立ち直るために学んだことが、その後の仕事に活かされていると感じます。でももし当時に戻れるなら、そしてWeb業界でのキャリアを歩むことを決めていたなら、独立し単身アメリカの先進企業に武者修行に行きたかったな、と思います。
もし、今29歳の皆さまに伝えることがあるとすれば、「今所属している会社や組織の枠内で物事を見るのではなく、俯瞰(ふかん)で自分の会社や組織の過去・現在・未来を見るように」と言いたいです。
その結果、自分のキャリアにとって、今の立場が有利なのであれば、そこで頑張っていろいろな経験をすればいいし、もし有利でないなら、転職や独立起業も選択肢に入れて頑張ってみることをお勧めします。20代最後の29歳という年齢は、決断をするのによいタイミングだと思いますし、自分で道を切り開くチャンスは、ただ待っているだけではつかめないのですから…。
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